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フィナーレ曲メモ。
1)ス・ワンダフル
2)ジュリーがオーデションで歌った曲
3)スワニー
4)アイ・ガット・リズム
5)サマータイム
6)アイ・ガット・リズム〜ス・ワンダフル

とにかく、ショーがすっごく良かったです。お芝居も思ってたよりずっとしっかり作られていて、舞台装置も音響も演出もすごく手間暇かけて工夫されている印象がありました。ただ、あんまり「ちゃんとした芝居」だったので、私はかえって足りないところが気になってしまいました。主に脚本ですけどね。

ショーというかフィナーレは完璧。お芝居の余韻もあり、なおかつ「いかにもOSKらしい」カッコいいダンスが満載。

ただ、お芝居とショーで、音楽のクオリティというかセンスがぜんぜん違うのが不思議なんですよね。とても同一人物とは思えないのだけど、今回はプログラムとかまったくなかったので、スタッフが確認できない。もしかしたら意図的にテイストを変えたのかもしれないし、ショーはありものを使ったのかもしれないけど。でも、ありものだったらお芝居のほうでも使っていいですしねぇ。

どこがどう違うのかって説明しにくくてもどかしいけど、お芝居の前半は良くも悪くも特に気にならなかったんです。「まぁ、こういう音楽はこんなもんだよね」くらいで。だけど後半でだんだん「なんでこんな音なんだろう???」とひっかかり出して(ガーシュインの頭痛のときの音とか、ジュリーに楽譜を渡したときの「ス・ワンダフル」のイントロとか、ムード歌謡みたいな「サマータイム」のイントロとか)、ラストシーンでガーシュインが歌う「ス・ワンダフル」が決定的に「これはないでしょう!」って感じだったんですね。あの場面で「明るく華やかでキラキラと爽やかな音楽」とか「オーケストラの音を使ったよくある歌劇調じゃない音楽」という演出上の意図はすごく良かったんですけど、なんかチャッチかったですもん。すごく「安っぽいシンセサイザーの音」みたいで。

だからお芝居では「ガーシュインの曲」ってそんなに良いとは思えなくて、台詞でガーシュインがどんなに「天才だ!」って言われてても「私はコール・ポーターやグレン・ミラーのが好きだなぁ」と思ってしまっていて、それもお芝居にはまれなかった理由かもしれないです。

ところが、本編が終わって、フィナーレの「ス・ワンダフル」のイントロが聞こえてきたとたんに「うわ!キター!」みたいな。フィナーレの曲はどれも本編で使われてたものなので、「同じ曲なのになんでこんなに印象が違うのー!」というのがホントにびっくりでした。これ、ダンスのあるなしは関係ないですよ? たとえば本編の「サマータイム」とフィナーレで桜花さんが歌う「サマータイム」のイントロ部分だけだって大違いですもん。

男性ボーカルの古いレコードみたいな「スワニー」も、ピアノがメインの「アイ・ガット・リズム」も可愛くて洒落てて良かったです。ホント全部好き。たぶん構成も良かったと思うのですよ。ロマンティック系のデュエットダンスを2曲目に持ってきて、あとはスピード感のあるポップな雰囲気で畳み掛けてる。5曲目の桜花ちゃんの「サマータイム」はイントロと歌い出しはぐっとテンポ落として渋く渋く、でも、そこはあんまり長くなくて、一瞬でパーッとまたアップテンポになるのが、ホンットに「よく分かってらっしゃる!」って感じ。そのあたりは音楽というより演出の上手さなんでしょうけど、これくらい演出意図と音楽がピシッと調和してると本当に気持ち良い。

最後の6曲目は「アイ・ガット・リズム」を若木さんが歌って、出演者が順番に出てきて一礼するいわゆるパレードの流れなんですが、桜花さん以外が舞台に揃ったところで、ちょっとだけ照明が翳ってドラムがドンドンくるところがもー好きで好きで。2005年の武生の「シング・シング・シング」のドラムの溜めのところにちょっと似てて、これはまぁ、ただの個人的なツボという話もありますけどね。

音楽だけじゃなくてダンスも素晴らしかったなぁ。そりゃOSKでダンスが良いのなんて当たり前ですけども、今回なんて、あんな狭い舞台にあの人数で、あんなハードな振り付けで、なんであんなにパワフルにノビノビ踊れるんでしょうか、あの人たちは。というか、これは振付家も凄いんだろうなぁ。じゃあ「世界館は狭いからあんまりダンスがなくてもしょうがない」と思ってた公演は何だったんだ?みたいな(笑)。

なんか出演者のことが一言もなくていいのか?って感じですけど、まぁ、いっか。何はともあれ芝居とショーをひっくるめて、ホントに充実した良い公演でした。眼福眼福。

編集日記 | 【2007-09-24(Mon) 06:36:49】 | Trackback:(0) | Comments:(2) | [編集]

ついさっきご注文のメールが届きまして、それをもって2号は売り切れとなりました。皆様どうもありがとうございました。もちろん予約をいただいてる方の分は取り置いてますのでご安心を。Vol.1の方は先日再販したので、しこたま在庫がございます。ここ最近でもポツポツ通販のお申し込みがあったりしたので、とり急ぎご報告まで。

編集日記 | 【2007-09-22(Sat) 03:01:24】 | Trackback:(0) | Comments:(0) | [編集]

宝塚プレシャスのお便りコーナーで「OSKのことを教えてください」という投稿があり、それに返信する形で「宝塚プレシャス : 洋あおいさんについて♪おたより」という記事が掲載されています。NewOSKについて言及されているのはもちろん、南座や武生のサイトにリンクも貼られています。もともと私は天野氏がどうこうというよりは、OSKの活動を知らせたいというのが重要だったので、まぁ結果的にはこれでいいかなぁって気もしないでもないです。でもさっきまた見てみたらものすごい勢いでお便りコーナーが更新されてて「なんだよ!そんなにOSKの話題を下げたいのか!」と、またちょっと怒りモード復活。今まで1日に2通も更新したことなんかないじゃーん! 私、ずっと宝塚プレシャスの中の人は特に宝塚ファンってわけでもないはずだから、立場的には中立なのかと思ってたんですが、もしかしたらめっちゃヅカ贔屓なんですかね。まぁ、宝塚ファンのためのサイトで宝塚を贔屓したってしょうがないんだけど、なんか釈然としませんね。

ところで今日はまた公式サイトに新しい情報が掲載されてました。ワンズカンパニーに事業を譲渡するみたいですね。ワンズさんは今までもウェブショップだとか、イベントにOSKの劇団員さんを呼んでくれたり、いろいろお世話になっているのでなんとなく親近感はあったりします。なんかねぇ。「劇団員一同」の文章を見てると泣けてきますよねぇ……。こっちも頑張るから頑張ってくれ!としか言えませんけどもねぇ……。や!頑張りますよ!

そんなこんなで今日は世界館の初日だったわけですが、私はじみじみと編集作業を続けております。9月公演にも間に合いませんでしたIl|li_| ̄|○il|li
ほとんどのコーナーはできあがってはいるんですが「印刷してみたら読みにくかった……」とかあって、いろいろ調整中です。とりあえず肥田先生のコーナーはこんな感じ。最初と最後のページだけですが。明日は世界館行ってきます。
R3-01.jpg


編集日記 | 【2007-09-22(Sat) 00:03:57】 | Trackback:(0) | Comments:(2) | [編集]

今日の夕方公式サイトで劇団が民事再生法による再生手続きを開始した旨が告知されました。まぁ、贔屓目に見ても企業として安泰してるとは思えない会社だったので「ついにきたか……」というところでもあるし、予定されている公演はそのまま行われるのであれば、決して最悪の事態ではないと認識しました。

私自身は債権者ではないので、これまで通りささやかながら公演に足を運ぶ以上のことはできないのですけども、しかし「民事再生法」とか「管財人」とか、これまでまったく縁のない単語の仰々しさに動揺がないわけでもないので、とりあえずネットであちこち見て回ってました。なんかいろいろとややこしくて「すっきり理解」というわけではないのだけど、比較的分かりやすい説明のあったページをリンクしときます。断片的な情報だけで騒ぎを大きくしても益はないですから。

ITJ法律事務所
法人の民事再生法トップ
法人の民事再生法について、概略から手続きの方法、会社更生と民事再生の違いまで簡潔にやさしい言葉で書かれています。

このページの「どのような手続きで進むのか?」の欄を見ると、諸手続きの内容やそれに要する日数が分かります。
手続/申し立てからの日数(目安)
1)申し立て・予納金納付/0日
2)監督委員選任/0〜2日
3)開始決定/2週間
4)計画案提出/2ヶ月
5)債権者集会・認否決定/5ヶ月

3)が今のOSKの状態ですね。公式サイトの文面で昨日付けで開始が決定していますから、申し立ては最大でも約2週間前です。

「民事再生法は認可されるまでに半年はかかる。故に半年前、松竹座公演前から申し立てをしていたのではないか」と言う人がいましたが、これ「再生計画案の認可にかかる日数」の間違いです。開始決定してから再生計画案を提出したり、債権者との話し合いを行い、その結果として計画が認可されるかどうか決まるんですね。

すでにニュースサイトのいくつかでも記事になっていますが、今のところ一番詳しいのは朝日のサイトみたいです。
asahi.com:新生OSK歌劇団が頓挫、民事再生手続きの開始決定 - 関西
世界館の写真、なんで正面じゃないのかな。<そこはどうでもいい。

NewOSK 再生手続きに開始決定|事件裁判|社会|Sankei WEB
あ、サンケイにも出てました。《早期に支援企業を確定し、事業を譲渡する方針。また、すでに民間企業1社からスポンサーとしての申し出もあるという》。どこだその民間企業。

あといろいろ見ていて「民事再生法」についてはこんなページもありました。
倒産と闘う 内藤明亜のホームページ
そごう問題と民事再生法について
「自力事業継続不可能」のフェイズを倒産と呼ぶならば、金融機関や支援会社のバックアップで事業継続できている会社の全てが倒産と呼ばれてしまうが、そうであれば過半数の会社がそれに当てはまることになる。ところが、マスコミで「倒産」と書かれたがために、その後の事業継続努力がほとんど無になって各店の閉鎖が続いている。

民事再生法はあくまで倒産を避けるための法律なんだそうです。上記の文はマスコミの問題として書かれていますが、OSKを支援する気持ちがあるのなら、もっと身近なところでも肝に銘じておかなければならないことなんじゃないかと思います。まぁ、どこをどう読んでも楽観視できる状況じゃないみたいですけど、やっぱり興行ってお客が入ってなんぼですから、とりあえずこれからの公演で少しでも観客を増やす努力をすることが再生への道筋になるんじゃないでしょうか。とにかく劇団員さんたちについていくのみ、です。


ところで。
こうとなるとプレシャスの件がついついかすんでしまいそうですが、私としてはまだまだ水に流す気にはなれません。どういう形でどういう活動をするかは模索中ですが、何らかの形で働きかけは続けるつもりです。まぁ、とりあえず3号の発行にこぎつけるのが私にとっては最優先事項なんですけども(汗)。

編集日記 | 【2007-09-19(Wed) 00:30:18】 | Trackback:(0) | Comments:(8) | [編集]

ひとつの記事に何度もトラックバックするのもなんですが、天野氏の著書(『宝塚のルール』)の話なんかは、宝塚ファンにも面白いんじゃないかなぁと思うので、もう一回。 ※何度か試したけどトラックバック反映されません(泣) ※今試したら反映されました。時間帯によるのかな?

『宝塚のルール』を読み終わったので感想を下に追加しました。(9/13)

まずは本題。「宝塚プレシャス」宛に、「この文章じゃ今は宝塚以外でレビューが上演されていないみたいです。そんな嘘を言いふらされたら迷惑なので訂正してください(意訳)」というメールを出したところ、「筆者の意図は“レビューが大衆に支持される時代は昭和で終わった”というものであり、この文章(いまレビューという芸能形態を伝えるのは宝塚だけである)は筆者があえて選んだ表現なので訂正はできない(意訳)」というお返事がきました。とりあえず、「この文章から著者の意図を読み取るのは無理。文章の“訂正ができない”のなら、読者に誤解されないよう編集権限で脚注入れてください(意訳)」と再度メール出しときました。

私の周囲でもそれなりの人数がこの件に対して問い合わせをしていますが、宝塚プレシャスからの返信はどれも同じなので、まだ読んでない人はこちらの「ちどりん日記」の記事をご覧ください(手抜き)。
宝塚プレシャス」からの返答
「宝塚プレシャス」からの返答【2】

人によって突っ込みどころはいろいろだと思いますが、私自身は天野氏自身の意向はあまり気にしていなくて、「宝塚プレシャス」がこの件にどう対応するのかを特に注目しています。その理由は私の「評論家」と「評論」についての考え方だとか、マスコミについての考え方だとかさまざまな要因があって上手く説明しにくいので、とりあえず省略。今後の展開によっては方針が変わるかもしれませんしね。


こっから余談。「天野道映」氏についてネットで検索してみたりもしたのですが、今までどういう文章を書いてきた人なのかはあまりよく分かりませんでした。元朝日新聞の記者で、宝塚に関しては本も出しておられるし、宝塚の機関紙にも頻繁に掲載されているようです。歌舞伎にもお詳しいのかな。いくつか引用されている文章を見かけました。菊田一夫演劇賞の選考委員会に名前があったので見てみたら、この賞って東宝が発表しているものなのですね。ぜんぜん知りませんでした。へーへーへー。

図書館のデータベースでもう少し詳しく調べられるかと思ったのですが、パソコンに不具合があって検索不可。その代わり『宝塚のルール』という著作があったのでパラパラと見てみたら、ちょうどレビューとはどういうものかというようなことについて書かれた章がありました。タイムリーじゃないですか。63ページから71ページまでの「レビューの伝統」というその部分をコピーしてきたので、簡単に内容をご紹介します。

天野氏は「宝塚レビュー」と「本来の形のレビュー」をいったん分けて考えてから、「宝塚レビュー」には「本来の形のレビュー」のテクニックや特徴が随所に活かされていると言う。そして(この本の中で話を進める上で)宝塚で上演される「芝居」も「ミュージカル」もひっくるめて宝塚歌劇全体を「レビュー」と呼ぶことにする、と書いている。そうすることで宝塚の持つ性質を大まかに把握できると考えたからだそうだ。

で、「本来の形のレビュー」のテクニック・特徴とは何かというと「転換に工夫が凝らされなければならない」「台本に独創性よりも構成の巧みさが求められる」「(様式美を形づくるための)異性装」「(構成の面白さを求める精神から)音楽は必ずしもオリジナルでなくてもよい」の4つが挙げられている。

なんで「男役」じゃなくて異性装という表記になるかというと、歌舞伎もまたレビューの特徴を兼ね備えているという話になるから。確かに上の4つの条件から行くと歌舞伎もレビューだ。別の作家の文章でも「歌舞伎=レビュー」というのを見かけたことがある。異性装はともかく、それ以外の要素は「実際にあった=すでに見たことのある出来事を寄せ集めた出し物」というレビューのもともとの成り立ちに関連しているわけですね。なるほどなるほど…………って「ショービジネス」も「通年公演」も「大劇場」もなんも関係ないじゃん!

この章の最後はこう締められている。
 歌舞伎も宝塚もレビューという点で一致し、また共に根強い人気を保っているのは、レビュー的性格こそ日本文化の根底に存在するものだからであろう。遠近法で一枚のタブローに描かれるヨーロッパの絵画に対する日本の絵巻物。幾何学的模様を形づくるヨーロッパの都市景観に対する融通無碍な日本の町並み。演劇以外の分野でも同じような例は多い。
 宝塚のレビューは、初めはパリから輸入したものであるにもかかわらず、今では日本の芸能のオリジンに深く結びついている。

「宝塚プレシャス」で言ってることと正反対ですな。まぁ、この本は10年以上前に出版されてるわけで、うっかり初出の確認を忘れてきたので、もしかしたら実際に書かれたのはもっと前かもしれませんけどね。だって発行1994年ですもんね。平成6年ですよ? 日本文化の根底に存在するというレビュー的性質が寿命を終えて、それから6年も気づかないなんてことはありえませんよね。歌舞伎もとっくに寿命を終えてるわけですね。 ※確認しました。書き下ろしみたいですね。この時代に読んでいれば納得できたと思う。もちろん時代によって思想が変化することもあるだろうが、現在天野氏が「レビューが支持される時代は昭和で終わった」と言う根拠はどこにあるのだろう。

1994年というと、それまでに大劇場で上演された正塚作品には『テンダー・グリーン(85年)』『ロマノフの宝石(89年)』『銀の狼(91年)』『メランコリック・ジゴロ(93年)』『ブラック・ジャック 危険な賭け(94年)』『二人だけの戦場(94年)』とかがあって、94年の作品はとうぜん本を書く時点では観ていないだろうけれども、しかしこのあたりって正塚作品が宝塚ファンにセンセーションを巻き起こした時期じゃないかなぁ。ふぅぅぅぅぅぅん。

コピーしてきた部分には正塚作品についての言及はなかったけど、植田紳爾せんせーに関しての記述はありました。
レビューのテクニックを巧みに取り入れ、その作品がしばしば「植田歌舞伎」と呼ばれるほど歌舞伎的色彩に深く彩られている植田紳爾が、宝塚そのものを代表する作家だということは歌劇の性格を語りつくして余すところがない。

へぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ。まぁ、なんというか、この章と「宝塚プレシャス」の文章を読み比べるだけで天野道映氏の「評論家としての仕事」がどういう性質のものであるかっていうのは、よく解るような気がしました。まぁ、念のため近いうちにもう一回図書館に行って、初出時期を確認してこようかと思います。 ※前述しましたが奥付その他を確認した結果『宝塚のルール』は1994年に書き下ろしされたものでした。後半では正塚作品(『ブラック・ジャック』までの大劇場上演作)についても「宝塚作品で女性登場人物がどのような役割を果たすか」というような文脈のなかで言及されていました。

ちなみに、ネットで検索したら筒井康隆が天野氏を痛烈に批判した文章を引用しているブログがあったので、それも図書館で見てきた。『笑犬樓よりの眺望』ってやつ。でもこれは、先に筒井康隆の作った芝居を天野氏が批判していて、それに大して筒井さんが「こいつ、何にもわかってねー!」って怒っているわけで、まぁ、今の私の心境だと筒井康隆の言い分に「さもありなん」と思ってしまうけれども、しかし自分自身がその芝居も天野氏の劇評も見ていない以上、このことは天野氏に対する評価の要因にしてはいけないと思う。

【追記】9/13
図書館で借りて『宝塚のルール』を読みました。こういう流れで言っても説得力ないですけど、ちょっと酷いわ、これ。内容は「なぜ宝塚の作品は多くの観客の心を掴むのか。その秘密を解くために、スターシステムや豪華な舞台装置・衣裳などの“目に見えるルール”とは別の“作品の根底に隠されたルール”を考察する」というもの。その“隠れたルール”がどういうものなのか、ここでは書きません。一言にできるものなのですが、その一言を説明するために書かれたのがこの本で、逆に言えばある程度の量の文章を読まなければ誤解されやすい「一言」なのです。私は本を読んだのでだいたい把握しましたし、一応は理解・納得できましたけど、適切な文章にまとめる自信がありません。

なので「この本は酷い」というのは、その内容や思想じゃないんですね。問題なのは単純に「文章の繋がりが不明瞭」「テーマと無関係とは言わないが不必要な記述が多い」「話題の切り替えがいちいち唐突」とか、要は「本/文章の構成が悪い」ということです。その結果、最後まで読んでも著者の伝えたいテーマがはっきりと浮かび上がってこない。章のそれぞれを読んでいる途中は「なるほど」と思うところも多々あるのだけど、読み終わると「で、何が言いたかったんだ?」「それが今までの話とどう繋がってるの?」というのが非常に把握しにくい。

あとがきで著者自身が《この本を書き始めた時、一応の構想は持っていたが、いま目の前に書き終えたようなものになろうとはまったく思ってもみなかった》と書いています。「なんか行き当たりばったりに話が進んでるなぁ」と思いながら読んでいたのだけど、まさに行き当たりばったりで書かれた本であったらしい。あははははは....._| ̄|●

それと、もう一点。これはまさしくプレシャスの問題が頭にあるから目についたことで、もしそれがなかったら読み流してしまったことかもしれないけれど、宝塚を説明するために持ち出している「歌舞伎」についての扱いがぞんざいに感じました。

本の後半は宝塚と比較されるのは宝塚以外の演劇作品(夢の遊民社など)ですが、前半はほとんど「宝塚と歌舞伎の共通点」という話です。宝塚と歌舞伎は、どちらも「レビューの特徴」を持っているというだけではなく、物語の内容にも共通項がある(これを言うために宝塚での上演作品を、芝居もミュージカルも合わせて「レビュー」と定義する必要があったわけです)。ゆえに“宝塚のルール”は、日本文化に根ざしたものである、ということ。この説を補強するために、歌舞伎以外にも柳田国男などの論説がたびたび引用されます。

ま、それ自体は良いんですよ。すでに出来上がってる歌舞伎の芸術的・文化的価値にあやかるのも方法としては間違ってはいない。てゆーか、OSKなんかもっと積極的にやってほしい。多少は自説に都合のいい引き合いの出し方だとしても、アリだと思ってます。ただ、この本の場合あまりに露骨だし、(よく読むと)かなり結論が強引だし、引き合いに出す側に無神経ではないかと。

本の冒頭「はじめに」の文章。
宝塚歌劇こそ江戸時代の人々が見ていた歌舞伎と同じように、時代と共に生きているからである。歌舞伎の方は明治以後、次第に古典化していった。(中略)河竹黙阿弥、三世河竹新七、竹柴其水という最後の座付狂言をもって、歌舞伎の戯曲史は終わったといってよい。(中略)(それ以降に書かれた作品は)江戸歌舞伎の感覚を継承するものではなかった(P7)。

って、なんでこの人はすぐに他のジャンルを勝手に終わらせるかなー!

や、「新歌舞伎」とそれ以前の戯曲に一線が引かれているのは、歌舞伎にはまったく疎い私ですら知ってますけどね。でも、この本の大半が「歌舞伎と宝塚の共通点」を語っていて《歌舞伎も宝塚もレビューという点で一致し、また共に根強い人気を保っているのは、レビュー的性格こそ日本文化の根底に存在するものだからであろう。》とまで言うのなら、そこはあえて黙っておいたほうが効果的だと思うのですよね。たとえ「戯曲史が終わったと言うのと、いま上演されている歌舞伎が現代の人々の心を掴んでいるのは別問題」だとしても。

で、もちろん(笑)そういう「戯曲史と現在上演されている歌舞伎との関係」は説明されないまま、別の章では岡本綺堂が大正4年に書いた新歌舞伎『鳥辺山心中』を自説の根拠としている。江戸歌舞伎は江戸歌舞伎、新歌舞伎は新歌舞伎でそれぞれ別の意図があって引き合いに出しているのだろうとは思うけれど、前述したように文章(本)の構成が悪いせいもあって、本当に分かりにくい。

そんなこんなで、「部分的には、なるほどと思うところがあっても全体的に酷い本」という結論になったわけです。新聞や雑誌で「公演評を書く仕事」をしている分には問題ないんでしょうけどね。私は成り行きで本一冊読むハメになったけれど、短い文章ならこういうアラは見えにくいもの。この本にも歌舞伎以外のいろんな演目や文献が出てきて、博識のようだし、小難しい用語を散りばめた硬い文章だと、それだけでなにか立派なことを書いているように思う人も少なくない。

「評論家と名乗る人」の書くものがすべて「評論」になっているとは限りません。自分の文章にどんな肩書きをつけるのかは自由だけど、実質的には「作品紹介」「作品解説」になっている「作品評」のほうが多いくらいじゃないかなぁ。私はちょっと「評論」というものに思い入れが強いので、なおさらなんだけど、プレシャスの件とこの本を読了した感想を合わせたら、天野道映という人に「評論」を期待することはできないと思いました。もっとも天野氏の文章を「評論」として通用させているのは、本人よりもむしろ周囲の環境なんで、そういう意味では天野氏ひとりが悪いと言うつもりもないです。今回の件だって、宝塚プレシャスがフォローする責任はあると思うんですよね。

それと。正直ね、OSKについて語る上で、「権威」ってものすごく欲しいんですわ。例えば文化的、芸術的、歴史的価値の評価や、大御所からの評価とか。OSKの魅力って、舞台を見た人には伝わるし、少しでも踏み込めばその価値も理解できるものだけど、まだOSKを見たことのない人にアピールしたり、今よりもっと広い範囲でファンを増やすには、そういうものも必要だから。だからこそ、極々小部数のミニコミ誌の分際でこんなことを言うのはものすごくおこがましいのだけど、この件は他山の石としなくちゃいけないなぁということも思っています。

編集日記 | 【2007-09-10(Mon) 04:18:50】 | Trackback:(1) | Comments:(2) | [編集]

すでに各所で指摘されていますが、宝塚プレシャス : 男役の行方〜正塚晴彦の全作品 はじめに〜宝塚の新しい時代に向かってという、天野道映氏の文章における誤認もしくは虚偽について、こちらでも記事にしておこうと思います。

 1927年(昭和2)に演出家岸田辰弥が洋行から帰り、『モン・パリ』を発表して、宝塚はレビュー時代に入った。レビューはたちまち宝塚からあふれ出し、浅草レビュー・OSK・SKDなどに広がるが、ほぼ昭和と共に寿命は尽きた。いまレビューという芸能形態を伝えるのは宝塚だけである。

ものすごく好意的に考えれば、《ほぼ昭和と共に寿命は尽きた。》の「ほぼ」に、NewOSKやその他、現在でも活動中のレビュー劇団が含まれていて「完全に寿命は尽きたと言っているわけではない」という解釈もできなくはないですが、しかしその後で《いまレビューという芸能形態を伝えるのは宝塚だけである。》と言い切ってしまうのであれば、その解釈は難しくなります。

私は「演劇評論家と名乗るなら、宝塚以外のレビューも知っておくべき」とは思っていません。現実問題として、NewOSKも他の団体も、自ら積極的に情報を捜し求めないかぎり、一般的な演劇関係者の目に止まるほど大きな活動をしているとは言えないからです。

しかし、これまで様々なところで見てきた宝塚に関する文章には、いかにも「宝塚ファン以外の外部の目で見て公平に評価した」という体裁に見せかけて、実際には非常に偏った視点で書かれたものも少なくありません。

天野氏は宝塚以外のレビューをご存じないのか、存在は知っていても「レビュー」だと思っていないのか。たとえこの文章のなかで、宝塚以外の劇団の実情に触れたとしても、宝塚だけがレビューだという根拠を(そんなものがあるとして、ですが)つけくわえたとしても、全体の論旨にはまったく影響はありません。そもそも私には、この一文は他のどの段落とも繋がっていない、たんに宝塚を持ち上げるだけの表現のように思えます。

私はもともと宝塚ファンでもありましたし、宝塚が「少女歌劇」を文化として定着させるために、松竹や近鉄とは比べ物にならない努力をしていることに敬意を感じてもいます。しかし、そのために今現在自分が大切にしているものを、ないがしろにされるのを見過ごすことはできません。「無視されるのもしかたのない規模」という認識があることと、宝塚を持ち上げるために存在を無視されるのを容認するのは別問題です。

この記事がネットで公開され、何よりトラックバックという手段があるのは幸いでした。メールや郵送で意見を伝えたとしても、それすら無視される可能性がありますし、そうなれば読者はこうした誤謬があることすら気づかないままでしょう。すでに何人もの方が意見表明されていますから、今さら同じ意見を重ねる必要はないのかもしれませんが、宝塚以外のレビューファンが存在していることを少しでも多くの人に知ってもらいたいという気持ちで、この記事もトラックバックさせてもらうことにします。


その他、この件に関してはちどりさんの記事が「まったくその通り!」と思うものであったので、(すでにご覧になっている方ばかりと思いますが)リンク+トラックバックをさせていただきます。
ちどりん日記〜NewOSKが好きなのだ〜:レビューはタカラヅカだけのものだろうか? - livedoor Blog(ブログ)

ところで、このちどりさんの記事の末尾にもある肥田先生のインタビュー。編集しながら思ったのですが、「レビュー」というものは基本的に「評論」と相性が悪いものなのかもしれません。ひとつにはこれが漫画やロック、一時代前の小説やジャズなどと同じ「娯楽」であること。もうひとつの、そしてもっと大きな理由は形に残らないことです。絵や文字ならそのままの形で残ります。音楽も映像に比べればずっと早くから記録されていましたし、譜面でもかなりの情報が伝わります。

肥田先生はレビューの真髄を「美しい音楽と、それに伴ったダンス」というようにおっしゃっていて、それと同時にレビューを見たときの感動は言葉に表現しにくい、とも言っておられました。私はその両方にとても納得して、多くのレビューが「流行」に止まってしまった原因の一部は、これが長い間映像として残すことができなかったからだけではなく、その内容を文章で残すことすら難しいからではなかったかと思ったわけです。たとえば公演後に友達と、どの場面が良かったかなどという話をします。そういう時は手振り身振りと口演奏で「ここが!ここが!」と言うことができ、同じものを見ている人には伝わります。でも、それを言葉で説明するのは至難です。

しかし同じ舞台芸術でも「芝居」となると、そこには言葉で理解できる筋があります。台詞をたどれば物語の説明ができます。「評論」の域とは言わずとも、楽しかったことや感動したことを言葉で表現したり、そうした二次情報を読んだり聞いたりすることで、より最初の感動が深く心に定着していく効果があるでしょう。その作品を見ていない人にも、筋を説明して、どの部分に感動したかを伝えることができます。天野氏の記事の中に「その後、戦争を経て、宝塚の舞台は変質していった。ひと口にいってドラマへの傾斜である。」と書かれていますが、私はそのことと、現在の宝塚がかつてに比べて「文化」として広く認められてきていることが無関係ではないように思いました。

そしてまた肥田先生も天野氏と同様に、宝塚に芝居/ドラマが増えたことを指摘しておられました。それについての先生の見解は、どうぞ近日発売の『NewOSK fan*magagine Rockette!』第3号でご覧ください(笑)。

編集日記 | 【2007-09-06(Thu) 00:12:13】 | Trackback:(1) | Comments:(6) | [編集]