ひとつの記事に何度もトラックバックするのもなんですが、天野氏の著書(『宝塚のルール』)の話なんかは、宝塚ファンにも面白いんじゃないかなぁと思うので、もう一回。
※何度か試したけどトラックバック反映されません(泣) ※今試したら反映されました。時間帯によるのかな?
『宝塚のルール』を読み終わったので感想を下に追加しました。(9/13)まずは本題。「
宝塚プレシャス」宛に、「この文章じゃ今は宝塚以外でレビューが上演されていないみたいです。そんな嘘を言いふらされたら迷惑なので訂正してください(意訳)」というメールを出したところ、「筆者の意図は“レビューが大衆に支持される時代は昭和で終わった”というものであり、この文章(いまレビューという芸能形態を伝えるのは宝塚だけである)は筆者があえて選んだ表現なので訂正はできない(意訳)」というお返事がきました。とりあえず、「この文章から著者の意図を読み取るのは無理。文章の“訂正ができない”のなら、読者に誤解されないよう編集権限で脚注入れてください(意訳)」と再度メール出しときました。
私の周囲でもそれなりの人数がこの件に対して問い合わせをしていますが、宝塚プレシャスからの返信はどれも同じなので、まだ読んでない人はこちらの「ちどりん日記」の記事をご覧ください(手抜き)。
宝塚プレシャス」からの返答「宝塚プレシャス」からの返答【2】 人によって突っ込みどころはいろいろだと思いますが、私自身は天野氏自身の意向はあまり気にしていなくて、「宝塚プレシャス」がこの件にどう対応するのかを特に注目しています。その理由は私の「評論家」と「評論」についての考え方だとか、マスコミについての考え方だとかさまざまな要因があって上手く説明しにくいので、とりあえず省略。今後の展開によっては方針が変わるかもしれませんしね。
こっから余談。「天野道映」氏についてネットで検索してみたりもしたのですが、今までどういう文章を書いてきた人なのかはあまりよく分かりませんでした。元朝日新聞の記者で、宝塚に関しては本も出しておられるし、宝塚の機関紙にも頻繁に掲載されているようです。歌舞伎にもお詳しいのかな。いくつか引用されている文章を見かけました。菊田一夫演劇賞の選考委員会に名前があったので見てみたら、この賞って東宝が発表しているものなのですね。ぜんぜん知りませんでした。へーへーへー。
図書館のデータベースでもう少し詳しく調べられるかと思ったのですが、パソコンに不具合があって検索不可。その代わり『宝塚のルール』という著作があったのでパラパラと見てみたら、ちょうどレビューとはどういうものかというようなことについて書かれた章がありました。タイムリーじゃないですか。63ページから71ページまでの「レビューの伝統」というその部分をコピーしてきたので、簡単に内容をご紹介します。
天野氏は「宝塚レビュー」と「本来の形のレビュー」をいったん分けて考えてから、「宝塚レビュー」には「本来の形のレビュー」のテクニックや特徴が随所に活かされていると言う。そして(この本の中で話を進める上で)宝塚で上演される「芝居」も「ミュージカル」もひっくるめて宝塚歌劇全体を「レビュー」と呼ぶことにする、と書いている。そうすることで宝塚の持つ性質を大まかに把握できると考えたからだそうだ。
で、「本来の形のレビュー」のテクニック・特徴とは何かというと「転換に工夫が凝らされなければならない」「台本に独創性よりも構成の巧みさが求められる」「(様式美を形づくるための)異性装」「(構成の面白さを求める精神から)音楽は必ずしもオリジナルでなくてもよい」の4つが挙げられている。
なんで「男役」じゃなくて異性装という表記になるかというと、歌舞伎もまたレビューの特徴を兼ね備えているという話になるから。確かに上の4つの条件から行くと歌舞伎もレビューだ。別の作家の文章でも「歌舞伎=レビュー」というのを見かけたことがある。異性装はともかく、それ以外の要素は「実際にあった=すでに見たことのある出来事を寄せ集めた出し物」というレビューのもともとの成り立ちに関連しているわけですね。なるほどなるほど…………って「ショービジネス」も「通年公演」も「大劇場」もなんも関係ないじゃん!
この章の最後はこう締められている。
歌舞伎も宝塚もレビューという点で一致し、また共に根強い人気を保っているのは、レビュー的性格こそ日本文化の根底に存在するものだからであろう。遠近法で一枚のタブローに描かれるヨーロッパの絵画に対する日本の絵巻物。幾何学的模様を形づくるヨーロッパの都市景観に対する融通無碍な日本の町並み。演劇以外の分野でも同じような例は多い。
宝塚のレビューは、初めはパリから輸入したものであるにもかかわらず、今では日本の芸能のオリジンに深く結びついている。
「宝塚プレシャス」で言ってることと正反対ですな。まぁ、この本は10年以上前に出版されてるわけで、うっかり初出の確認を忘れてきたので、もしかしたら実際に書かれたのはもっと前かもしれませんけどね。だって発行1994年ですもんね。平成6年ですよ? 日本文化の根底に存在するというレビュー的性質が寿命を終えて、それから6年も気づかないなんてことはありえませんよね。歌舞伎もとっくに寿命を終えてるわけですね。 ※確認しました。書き下ろしみたいですね。この時代に読んでいれば納得できたと思う。もちろん時代によって思想が変化することもあるだろうが、現在天野氏が「レビューが支持される時代は昭和で終わった」と言う根拠はどこにあるのだろう。
1994年というと、それまでに大劇場で上演された正塚作品には『テンダー・グリーン(85年)』『ロマノフの宝石(89年)』『銀の狼(91年)』『メランコリック・ジゴロ(93年)』『ブラック・ジャック 危険な賭け(94年)』『二人だけの戦場(94年)』とかがあって、94年の作品はとうぜん本を書く時点では観ていないだろうけれども、しかしこのあたりって正塚作品が宝塚ファンにセンセーションを巻き起こした時期じゃないかなぁ。ふぅぅぅぅぅぅん。
コピーしてきた部分には正塚作品についての言及はなかったけど、植田紳爾せんせーに関しての記述はありました。
レビューのテクニックを巧みに取り入れ、その作品がしばしば「植田歌舞伎」と呼ばれるほど歌舞伎的色彩に深く彩られている植田紳爾が、宝塚そのものを代表する作家だということは歌劇の性格を語りつくして余すところがない。
へぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ。まぁ、なんというか、この章と「宝塚プレシャス」の文章を読み比べるだけで天野道映氏の「評論家としての仕事」がどういう性質のものであるかっていうのは、よく解るような気がしました。まぁ、念のため近いうちにもう一回図書館に行って、初出時期を確認してこようかと思います。 ※前述しましたが奥付その他を確認した結果『宝塚のルール』は1994年に書き下ろしされたものでした。後半では正塚作品(『ブラック・ジャック』までの大劇場上演作)についても「宝塚作品で女性登場人物がどのような役割を果たすか」というような文脈のなかで言及されていました。
ちなみに、ネットで検索したら筒井康隆が天野氏を痛烈に批判した文章を引用しているブログがあったので、それも図書館で見てきた。『笑犬樓よりの眺望』ってやつ。でもこれは、先に筒井康隆の作った芝居を天野氏が批判していて、それに大して筒井さんが「こいつ、何にもわかってねー!」って怒っているわけで、まぁ、今の私の心境だと筒井康隆の言い分に「さもありなん」と思ってしまうけれども、しかし自分自身がその芝居も天野氏の劇評も見ていない以上、このことは天野氏に対する評価の要因にしてはいけないと思う。
【追記】9/13
図書館で借りて『宝塚のルール』を読みました。こういう流れで言っても説得力ないですけど、ちょっと酷いわ、これ。内容は「なぜ宝塚の作品は多くの観客の心を掴むのか。その秘密を解くために、スターシステムや豪華な舞台装置・衣裳などの“目に見えるルール”とは別の“作品の根底に隠されたルール”を考察する」というもの。その“隠れたルール”がどういうものなのか、ここでは書きません。一言にできるものなのですが、その一言を説明するために書かれたのがこの本で、逆に言えばある程度の量の文章を読まなければ誤解されやすい「一言」なのです。私は本を読んだのでだいたい把握しましたし、一応は理解・納得できましたけど、適切な文章にまとめる自信がありません。
なので「この本は酷い」というのは、その内容や思想じゃないんですね。問題なのは単純に「文章の繋がりが不明瞭」「テーマと無関係とは言わないが不必要な記述が多い」「話題の切り替えがいちいち唐突」とか、要は「本/文章の構成が悪い」ということです。その結果、最後まで読んでも著者の伝えたいテーマがはっきりと浮かび上がってこない。章のそれぞれを読んでいる途中は「なるほど」と思うところも多々あるのだけど、読み終わると「で、何が言いたかったんだ?」「それが今までの話とどう繋がってるの?」というのが非常に把握しにくい。
あとがきで著者自身が《この本を書き始めた時、一応の構想は持っていたが、いま目の前に書き終えたようなものになろうとはまったく思ってもみなかった》と書いています。「なんか行き当たりばったりに話が進んでるなぁ」と思いながら読んでいたのだけど、まさに行き当たりばったりで書かれた本であったらしい。あははははは....._| ̄|●
それと、もう一点。これはまさしくプレシャスの問題が頭にあるから目についたことで、もしそれがなかったら読み流してしまったことかもしれないけれど、宝塚を説明するために持ち出している「歌舞伎」についての扱いがぞんざいに感じました。
本の後半は宝塚と比較されるのは宝塚以外の演劇作品(夢の遊民社など)ですが、前半はほとんど「宝塚と歌舞伎の共通点」という話です。宝塚と歌舞伎は、どちらも「レビューの特徴」を持っているというだけではなく、物語の内容にも共通項がある(これを言うために宝塚での上演作品を、芝居もミュージカルも合わせて「レビュー」と定義する必要があったわけです)。ゆえに“宝塚のルール”は、日本文化に根ざしたものである、ということ。この説を補強するために、歌舞伎以外にも柳田国男などの論説がたびたび引用されます。
ま、それ自体は良いんですよ。すでに出来上がってる歌舞伎の芸術的・文化的価値にあやかるのも方法としては間違ってはいない。てゆーか、OSKなんかもっと積極的にやってほしい。多少は自説に都合のいい引き合いの出し方だとしても、アリだと思ってます。ただ、この本の場合あまりに露骨だし、(よく読むと)かなり結論が強引だし、引き合いに出す側に無神経ではないかと。
本の冒頭「はじめに」の文章。
宝塚歌劇こそ江戸時代の人々が見ていた歌舞伎と同じように、時代と共に生きているからである。歌舞伎の方は明治以後、次第に古典化していった。(中略)河竹黙阿弥、三世河竹新七、竹柴其水という最後の座付狂言をもって、歌舞伎の戯曲史は終わったといってよい。(中略)(それ以降に書かれた作品は)江戸歌舞伎の感覚を継承するものではなかった(P7)。
って、なんでこの人はすぐに他のジャンルを勝手に終わらせるかなー!
や、「新歌舞伎」とそれ以前の戯曲に一線が引かれているのは、歌舞伎にはまったく疎い私ですら知ってますけどね。でも、この本の大半が「歌舞伎と宝塚の共通点」を語っていて《歌舞伎も宝塚もレビューという点で一致し、また共に根強い人気を保っているのは、レビュー的性格こそ日本文化の根底に存在するものだからであろう。》とまで言うのなら、そこはあえて黙っておいたほうが効果的だと思うのですよね。たとえ「戯曲史が終わったと言うのと、いま上演されている歌舞伎が現代の人々の心を掴んでいるのは別問題」だとしても。
で、もちろん(笑)そういう「戯曲史と現在上演されている歌舞伎との関係」は説明されないまま、別の章では岡本綺堂が大正4年に書いた新歌舞伎『鳥辺山心中』を自説の根拠としている。江戸歌舞伎は江戸歌舞伎、新歌舞伎は新歌舞伎でそれぞれ別の意図があって引き合いに出しているのだろうとは思うけれど、前述したように文章(本)の構成が悪いせいもあって、本当に分かりにくい。
そんなこんなで、「部分的には、なるほどと思うところがあっても全体的に酷い本」という結論になったわけです。新聞や雑誌で「公演評を書く仕事」をしている分には問題ないんでしょうけどね。私は成り行きで本一冊読むハメになったけれど、短い文章ならこういうアラは見えにくいもの。この本にも歌舞伎以外のいろんな演目や文献が出てきて、博識のようだし、小難しい用語を散りばめた硬い文章だと、それだけでなにか立派なことを書いているように思う人も少なくない。
「評論家と名乗る人」の書くものがすべて「評論」になっているとは限りません。自分の文章にどんな肩書きをつけるのかは自由だけど、実質的には「作品紹介」「作品解説」になっている「作品評」のほうが多いくらいじゃないかなぁ。私はちょっと「評論」というものに思い入れが強いので、なおさらなんだけど、プレシャスの件とこの本を読了した感想を合わせたら、天野道映という人に「評論」を期待することはできないと思いました。もっとも天野氏の文章を「評論」として通用させているのは、本人よりもむしろ周囲の環境なんで、そういう意味では天野氏ひとりが悪いと言うつもりもないです。今回の件だって、宝塚プレシャスがフォローする責任はあると思うんですよね。
それと。正直ね、OSKについて語る上で、「権威」ってものすごく欲しいんですわ。例えば文化的、芸術的、歴史的価値の評価や、大御所からの評価とか。OSKの魅力って、舞台を見た人には伝わるし、少しでも踏み込めばその価値も理解できるものだけど、まだOSKを見たことのない人にアピールしたり、今よりもっと広い範囲でファンを増やすには、そういうものも必要だから。だからこそ、極々小部数のミニコミ誌の分際でこんなことを言うのはものすごくおこがましいのだけど、この件は他山の石としなくちゃいけないなぁということも思っています。